今日はまた違う喫茶店を選んでみたんだけど、この店も雰囲気あって良いね。ケーキの種類もあるし、ああ!紅茶にニルギリを選べるじゃないか!これは当たりのお店かもしれないね。期待が高まるよ。
さて、感動についての続きだ。ざっくりとまとめると
・対象に共感できること
・対象が自分にはできない行為を成し遂げること
この2点が感動という感情を生み出すんじゃないか、という話をしたね。前回はいろいろ具体例をあげたりしたけど、他にも感動することというのはある。大自然を見て感動するとか、旅の景色に感動するとか、結構幅広いんだよね。ひとことで「感動」と表現しているけど、それらは同じ感動なのだろうか?という疑問もある。映画「レ・ミゼラブル」を見終わった時の感動と、水平線に太陽が沈んでゆく感動が同じかと言われたら、なんか違う気はするよね。
これは愛について考えた時と同様に、もしかしたら本来は別々だった感情をひとつにまとめて「感動」という言葉を当てはめたんじゃないか…そんな推測も成り立ちそうだ。
日本の古語では感動することを「心動く」と表現したそうだよ。そういえば現代でも「心を打つ」と言ったりするよね。「感動」という言葉がいつ、どのように生まれたのかはわからないけど、心に何かしら働きかける現象のことと言えるのかもしれない。
ここで疑問なのは「心が動くとはなんぞや?」ってこと。
例えば、いま君がにらめっこしているメニューのケーキセットだ。ブルーベリーのレアチーズケーキを注文しようと思っていたけど、メニューの写真や説明文を読んでカシスのチーズタルトの方が美味しそうと思ったとする。これも心が動いたと言えるのか?一般的にはこれは「心が変わる」とか「心が傾く」と表現するけど、「心が動く」と捉えても不自然とは言えない。
じゃあ感動してる?してないよね。
これは、どのケーキを食べたいのか対象が変わってるだけで「美味しいものを食べたい」という欲求自体は変わらずに心にあるから、と考えられる。つまり「心変わり」ではあるけど「心動く」ではないという解釈だ。この「美味しいものを食べたい」という根本の気持ちが変わった時が「心動く」時なのかもしれないね。
でも更なる疑問だ。君が突然何かの影響を受けて「美味しいものを食べるなんて贅沢な行為はやめよう。世界には恵まれない人がたくさんいるのに」と募金に目覚めたとする。明らかに心が動いている。でも、それは感動してると言えるんだろうか?少なくとも僕が想定している「感動」ではないと思うんだよなあ。
そう考えると「心が動く=感動」ではなく、心が動く現象の一部が感動であると言えるんじゃ無いかな。愛と萌えの関係みたいに、心動くだけでは表現しきれない何かを切り取って感動という言葉を当てはめたんじゃないだろうか?まあ僕の妄想だけど。
なんだか結局は「感動とは心動く現象の一部である」という当たり前すぎる結論になっちゃったけど、こうやって色々考えるのも楽しいものさ。
さて、そろそろ店員さんを呼ぼうか。僕は本日のケーキセットにするよ。君はえーと…結局ブルーベリーのにするんだね。心は動かなかったか。
え、違う?全部のメニューに順番に心を動かした結果1周して元に戻っただけ?なるほど、そういうこともあり得るのか。感動はしないけど感心したよ。