突然どうしたのかって?
いやね、最近いろいろあって考えることが多いテーマなんだよ。誰しも一度くらいは「自分は誰からも愛されていない」と感じたことがあるんじゃないかな?僕も何度思ったことか。昔は僕だけがこんな理不尽な思いをしていると悲劇の主人公を気取ってたけど、話をきくと結構いろんな人が抱える悩みで、こう言っちゃなんだけど、ありふれた悲劇みたいなんだよね。君も身に覚えがあるんじゃないかな?
え?正月にふさわしくないテーマだって?何を言うんだ、正月こそ愛を語るにふさわしい日だよ。多くの家族がひとつに集まり、年賀状やおめでとうメールに一喜一憂する姿は、まるで愛を確認し合う迷える子羊のようじゃないか。決して年賀状の数が思ったより少なくて寂しいなあとか、去年送ってくれた人が今年は送ってこないなあ、なんてことで悩んでいるわけじゃないんだよ?いいね?あ、君からはメールもらったよね。ありがとう。
さて、愛というのは辞書で見ると複数の意味があるのがわかる。男女の愛情から始まって、家族愛や友愛、キリスト教で言う神の愛なんてのもあるね。これらは「愛」という字は付いてるけど全部同じモノなんだろうか?
例え話をしよう。男女としての愛を求める人々がいるとする。そこに家族としての愛を持ってきたら、すれ違いが起きるだろうといのは想像つくよね。自分が欲しい愛を相手は与えてくれない、ああ自分は愛されていないんだって感じてしまうだろう。この気持ちが暴走すると「誰からも愛されていない」という気持ちに陥りやすい。でも実際のところはその瞬間に欲しい人から欲しい愛が受け取れなかった、または気づかなかっただけであって、誰かから何らかのかたちで愛されてるとは思うんだよ。そうあって欲しいという僕の希望も盛り込まれてるけどね。
とは言っても感情的に納得しがたいというのも理解できるんだよね。自分が欲しいのは、この人からのこういう愛であって、他の人からでは意味がないと感じるのはむしろ当たり前ではある。自分は恋人には愛されてないけど他の人から愛されてるから幸せです、なんていう人は見たことも聞いたこともない。むしろいて欲しくないなあ、倫理的に。
これは結局さ、愛とは一言でいうけど実際のところ色んな種類があることが原因だと思うんだ。実際、古代ギリシアでは「アガペー」「フィーリア」「エロス」「ストルゲー」と4つの愛を区別している。いや、逆だね。元々4つの独立して定義されていた概念を後世の人が「love」という単語に集約させてしまったんだ。元々日本に存在した「愛」という漢字は人に対して使う場合「可愛がる」とか「好き」というシンプルな意味だったそうだよ。現代で言えば「萌え」が近いんじゃないかな。それが明治時代に「love」の翻訳語として「愛」が選ばれ、その結果幾つもの意味を持つ様になったと言われている。本来の意味合いから外れてきた「愛」という言葉に限界を感じて、日本人が本能で求める感情を「萌え」という新しい言葉で表現した、とか考えると面白いね。おっと、話がそれた。
人が求める愛はその時々によって変わる。幸せのかたちが幾つもあるように、愛のかたちも千差万別だと思うんだよね。たった一つの愛が得られなかったことで全ての愛の存在を否定するなんて悲しいじゃないか。マイケル・ジャクソンも言ってたように「全ては愛なんだ」。そう、世界に愛は溢れている。知らないだって?それはもったいない。是非「THIS IS IT」を見て欲しいね。
おや?メールだ、なになに……先日提出した仕事が全部やり直しだって!?「オマエならできる」とか言われても。
え?これも「愛」のムチだって?他人事だと思って……僕が欲しいのはこういう愛じゃないんだよ。
ああ、僕はもう誰からも愛されていないのかも知れない。